3か月ほど前に発表された「ヤマト、メール便配達を日本郵便に移管 ネコポスも」の記事。
上記ニュースを目にした時に漏れ出た独り言は「いつか来た道ではないのか」だった。
同じような思いを抱いた業界人は多いかもしれない。
私に限らず、脳裏に浮かんだ寄る辺なさは「日通、宅配便から撤退 統合計画が破談」という14年前の出来事に由来しているのだと思う。
意地悪くこじつけるつもりはないが、マルツウがネコに変わっただけで、またもやポストが老獪な業界ガリバーの策略にまんまとはまってしまった、いう印象しか残らない。
各論に違いはあれど、総論として「波動が大きく、儲からず、人員確保と労務管理が難しい」事業を切り離して、インケツやババの札を引かしても支障ない相手に委託した――委託を移管とか協業とか言い換えても、どれほどアライアンス試算を図示化しようとも「押し付けた」感は払しょくできない。
辺境地を含む全国津々浦々に、宅配作法とは別建てで信書以外の廉価な薄小物を運ぶよりも、施設内物流の丸請けや、120サイズまでに特化した「高歩留まり配送」を目指すことで、収益維持を図ろうとするヤマトの言動は非常にわかりいいし、手なり感に満ちて巧みである。
そこにはかつて日本通運が、細かくて廉くて手間がかかる個配事業を切り離して、従来の基幹物流や特殊梱包・配送や設置配送に集中する選択を断行した事例とほぼ同じ後味が残る。
これでJPはペリカン便由来のゆうパックとクロネコメール便由来のゆうメールという混血事業を両輪として回さねばならなくなった。「たとえマルツウやネコがサジを投げた事業であっても、ポストならばなんとかできる」という判断のもとに14年前も今回も意思決定されたのだと考えざるを得ないが、はたしてどこのどなたさまがそのように判じたのだろうか。
積載率の向上が収益性に寄与するという説明はたしかに理に適っているが、郵便小包と個配物の相乗効果を収益化できなかった暗い過去は現在進行形でもある。
総務省と国土交通省というふたつの監督官庁が事業内に同居している点はマイナス要素として数値化されることがないまでも、二重行政の弊害が皆無であるとは思えない。
それはヤマト運輸が信書問題の際に、縦割り行政の弊害に対する満身の抵抗と実務的な根拠に基づく疑義を国に問うたが、結局は何も変わらなかった事実が物語っている。
そしてついには郵便物と軽薄小貨物の同梱不可なままのメール便事業は配送効率化による収益性維持が困難という結論を導きだし、分離撤退という結果に至った。
ヤマトが見限った事業をJPがいかに益とするかは今後数年で判明するが、既存のメール便サービスは大きく変質するに違いない。
郵便に寄れば良化。
貨物に寄れば悪化。
というのが私の見立てである。
わが国の郵便システムは素晴らしい。それは誰もが認めるところだ。
にもかかわらず断行された「郵政民営化」とは簡易保険事業の再編と同義であった。
私は物流屋なので、ここで政治判断や政局について論じる気はさらさらない。
ただ残念なのは、既得権や垣根の破壊ついでに郵便の貨物分野乗り入れまでやっていれば、既存の郵便局インフラ活用で最高の個配サービスが提供できたに違いないという点だ。
当然ながら民業圧迫という反発はあったにしても、今に至る一連の出来事を顧みれば、結局は民間事業の不効率不採算を半官半民事業者が引き受けるという絵図に収まっている。
つまり国単位の収支としては同じ解に至る。単に式が異なっているに過ぎないのだ。
もしJPの経営状態が低空飛行を続ける憂き目に見舞われれば、
「赤字承知で継続せざるを得ないならば官業に戻すべき」
「社会資本としての公共性や生活インフラ維持のために公費投入もやむなし」
などの正論が強まるだろう。
そうなると国策である官業民営化や規制緩和の御旗を、郵便などの特定分野についてはこっそり下ろす羽目になりそう、という予感や予想は予定に変わってしまいそうだ。
勝ち続け生き残るために、業界の雄たちは事業の取捨選択に躊躇しない。その結果が公費による敗戦処理しかなくなると判っていても、立ち止まったり迷ったりすることはない。
それはわが業界に限らず、数多の事業者たちがいつか来た道なのだ。
「無理してまで運ばない」が運送事業者の今後を占うキーワードとなるかもしれない。
永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。
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