前掲で思いっきりわき道に逸れてしまったメシのハナシ。
と言いながら、掲題のとおり「今後は現場でのメシや休憩のハナシが減るいっぽうになるんだろうなぁ」という寂しさまじりのため息をついているのは私だけではなさそうだ。
そうなると、ひと昔前の現場メシ爆笑エピソードや社食・弁当・売店などの勤労者を支えるお楽しみインフラの果たす役割とその将来像について、、、などという拙者が得意なハナシをご披露する機会も減るばかり。残念ながらこれも時勢として受け止めるしかないようだ。
少し前に書いたが、パートタイム契約の現場職は一日6時間労働が主流となりそう――労使双方が一定の合理性に納得できる労働体系、という評価が得られるからだ。
まずは労働者側の視点。
6時間通し労働には休憩や食事を挟む必要がない。ゆえに報酬を拘束時間で除してみれば、最大の時給効率が得られる。つまり拘束時間≒労働時間≒時給発生時間、となる。
さらには週5日出勤し、週30時間労働を満たせば、俗にいうフルタイム労働の非正規従業員が得ている正社員同等待遇のいくつかを得ることができるはずだ。
一方で使用者側にも利点は多い。
たとえば休憩所や食堂などの想定使用者数を極少化できる。その結果として施設や設備とその要員など福利厚生面での負担軽減が見込める。
さらには「あの会社は6時間勤務ができる。拘束時間≒時給対象時間だから効率が良い」という評判の口コミ、採用広告での訴求などによって人材獲得や人員維持面での寄与が期待できる点も大いなる魅力と評価できるのではないだろうか。
もう一丁掘り下げれば、既存の「8時間労働で3人がかり」の現場作業を「6時間労働の3人体制」でこなせるようになった、という効用を目論むことも夢想や絵空事ではない。
言わずもがなだが、従来の延べ24時間から圧縮できた6時間分はコストカットだけに回してはならない。浮いた6時間分の全部か一部かは現場なりにしても、当該スタッフの昇給原資として速やかに時給反映させることが肝要である。時給反映以外にも定時報奨金などの名目で積み立てるのもよいと思うが、いずれにしても成果に対する明確な評価を報酬化することが管理者の責務であり、現場運営の基盤を強める条件である。
というのが転じて「メシなし・休憩なし」が今後増えるだろうというハナシになるわけだ。
ちなみに私のかかわる現場での実例・実績なのだが、どの現場拠点であっても一定の効果が見込める、、、と言い切るには調査サンプル数が少ないので、現段階ではあくまで一例としてお読みいただきたい。
ここまで書いておきながらも、拘束時間の最少化で得られる時給効率の向上が、もれなく作業品質や人材確保に貢献するものとなるのか?という疑問が影のごとく付きまとう。
拘束時間内の法定休憩時間や事業者側が内部規定として設けている有給休憩時間を無駄と感じるか否かは個人の領域なので、優劣や○×の対象にはならないことも承知している。
なるほど確かに、帰宅を待つ人がいる、次の予定がある、ダブルワークである――のような上の句には「6時間通し労働は都合がよい」という下の句がピッタリである。
ただ気になることは、今後わが国では単身者世帯が増え続けるという統計だ。
上記のような上の句で始まらぬ生活者、もしくは「属する場を持たぬ者」にとって、労働とは程度の差こそあれ、否応がなく他者とかかわらねばならない場所である。
居職・出職の別にかかわらず、何らかの会話や相互確認作業が必要となるだろうし、その延長上に世間話的要素やエピソードトークのような無駄話の類が発生する。
ムダバナシには何の責任も義務もない。たわいもないハナシを各自気軽に、でよい。いわゆる無用の用という類のものなのだが、人間にとってそれはまったく無駄ではない。
、、、だから労働合理化ばかりを唱えてもなぁ。
労働場所でのメシや休憩の時間は報酬効率としては無駄なのかもしれないが、大いなる無駄のもつ意味を切り捨てるばかりでよいのかしら、、、いやいやよくないよ、きっと。
でも時間効率は企業にも個人にも無視できない要件のひとつ。
のようにブレブレなままモヤモヤがずーっと胸中に浮遊しているワタクシであります。
永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。
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