この数年来、新たに発売される物流機器やシステムに対して「もういいってば。そんなに斬新で挑戦的で画期的でなければならんもんか」と呟くことが多い。
その愚痴や辟易は自動車のデザインや機能にも感じている。安全を追求する開発については大賛成だが、環境寄与念仏や装備充実合唱が過ぎるのはいかがなものかと思う。
基幹となる業務や機能から遠く離れたところでの部分的切り取りでしかない付加価値や先進機能の開発は物事の順序としておかしいよ、と苦々しく感じて止まぬのだ。
手元足下の不細工や混沌には触れずに、先や次を論じることは無責任で幼稚でしかないと憤慨まじりに呟くこと多い最近なのだが、読者諸氏はいかがお考えになるのだろうか。
今までさんざん書いてきたとおり、少子高齢化→労働力不足→自動機器による省人化、といった危機感ビジネスを支える短絡思考が蔓延するようになったのはこの数年のことだ。
それは地球温暖化→CO2排出規制→EV普及至上主義、に似ている。双方に共通しているのは極端な視野狭窄に加えての単眼的・排他的な弾力性欠如の思考回路といえよう。
新たに提案される機器やシステムを、謳い文句通りに動かすための暗黙条件。すなわち予備・補助の労働実態をコスト化して試算する者は稀で、やっても無視されがちだ。
物流業務を理論的に動かすことに異存はないが、絵に描かれるばかりで、絶対に食えそうもない餅であることをどれほどの人々が判っているのだろうか。開発者や提案者たちは、現場を眺めることはあっても実務を体験してみるつもりなど皆無、というのが本音。ゆえにプレゼン用の資料は始まりから終わりまで立て板に水を流すごとく起承転結整ったものになっている。
会社が決定した自動化システムを額面通りに歩留まり確保するにあたり、現場管理者には満身創痍のサンドバッグ状態でも倒れたり泣き言を言ったりしない者が多い。
なので現場全体が右往左往してよろめきつつも、必死で「自動を維持するための手仕事と不効率動線」を不本意ながらも日々こなすのだ。
そんな実態など知る由もない経営層をはじめとするおエライ方々は「うまくいっている」と思い込む。そして即座に物流現場のことは一件落着とし、違う経営課題に視点を移す。
あとは自動化様を奉るがごとく、下々の人間たちがあくせく動き回ることで自動化様が機嫌よく稼働できる「理想郷的物流現場」が放置されたまましばらく時が流れる。
というのを他人事としか感じない物流人は多いが、この数年内に自動化関連の仕組を採用した現場には高確率で自分事となっている。該当する現場管理者の方々は、杞憂承知で来週にでも自社の庫内を調査されてはいかがだろうか。
最新鋭の機材やシステムを導入していないのであれば、そんな必要はない。引き続き金を掛けずに手間を減らす現場機善に勤しんでいただきたい。再三掲げているとおり、最重要キーワードは「許容時間」である。
蛇足だが、自動化のあれこれを検討中の事業者各位には「斬新で画期的なシステムが火急の策となっているほどに、自社現場は万策尽きているのか」と今一度お考えいただきたい。
不可避や不可欠という言葉ほど胡散臭いものはない、というのが物流屋の習い性たるへそ曲がりアンテナである。「諦めるほどやりきったのか」は管理者の常套句であってほしい。
自動車の動力議論では枯渇する化石燃料とその使用で排出される地球温暖化ガスの相乗悪化ばかりが取りざたされている。代替するクリーンエネルギー議論はEV念仏を生み出した。
しかしながらEV念仏の傍らで、リチウムイオンバッテリーはその大小を問わず、中身は危険物なのだという観点からの問題提起も議論の必添項目としてもらいたい。
誰がどこでどうやって急増する巨大なバッテリー廃品を順法保管するのか。さらに保管場所から出荷する先では、いかなる手段で大量の危険物を処理するのか。
エネルギー問題は、原子炉にしてもEVバッテリーにしても、入口ばかりに目を向けず、日々増え続ける廃棄物とその処理という「出口」の問題から目を逸らしてはならない。
それは過度で安直な自動化によって人間の働く場ではなくなってしまうかもしれぬ物流現場の「なれのはて」を想像しない愚かさに似ている。
心ある有志達には実直で堅実な思考で開発や運用にあたっていただきたいと願う。
年始に続いて小言幸兵衛さながらで恐縮である。
永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。
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