物流よもやま話 Blog

朝陽輝くヤード

カテゴリ: 余談

今回は祝日掲載ということもあり、業務から離れた個人的な雑文である旨ご容赦のほど。

早朝の人気ない倉庫のヤード。
晩秋の紫がかった朝陽が徐々に射し込み始めるヤードを眺めていると、さまざまな出来事や人々を思い出す。
倉庫業務は確かな毎日を実感させてくれる。
目の前にある品物を自らの手で取扱い、自身の脚で歩いて運ぶ。
荷受、検収、検品、棚入、ピッキング、出荷梱包、整理整頓。
一心不乱、という言葉以外に表現しようのない作業者達の横顔が脳裏を過る。

世の中に出た時、現在の仕事とはかけ離れた世界にいた。
5時前に寮を出て始発で出社し、営業課事務所の掃除。仕事を終えて終電近くで帰る日が続いた。帰寮後にはその日の訪問先に手書で礼状を。
9時前から10時間あまり、多い日には20Km以上歩き、ビルの最上階から1階までの全ての入居企業に飛び込む毎日だった。四谷三丁目の交差点で信号待ちをしている時に、水たまりに足を入れたのか?と湿り気味の靴をみたら、足裏にひしめく血豆がつぶれて靴底から赤い汗が滲み出していた。

同期入社の中でも私はぬきん出てドンくさく、要領が悪く、度胸がなく、営業職のくせに人見知りで、すぐにさぼり、そのくせさぼりを誰かに見られているのではとびくびくし、ドトールコーヒーで一服する際には社章を外し、訪問先の受付でしょっちゅう声が裏返り。
今でもそのへんはあまり変わっていないと思っているが、およそ営業向きではなかった。

同期たちは着々と仕事を覚えて日々要領よくこなし、次々に大きな契約を獲っていた。見聞きしたくなくても、一年坊主たちの成約情報が全拠点・全部門にFAXで一斉同報される。毎夜帰社後に同期の武勇伝とその上司や本人のコメント入りの勲章のようなFAXのコピーを横目で見るのが常だった。
私は同年入社の営業職で最下位だった。何十人中ではない。400人超のなかで一番下だった。入社以来の契約件数はゼロ。考えるまでもなく一番下であることはあきらか。
いつ退職願を出すかを考える日が続いた。

不随意な事態の出来と奇妙な巡り合わせが続いた結果、今に至るのであるが、そんな紆余曲折は生きていればそれぞれに経ることだし、自分が特別に苦労や逆境や特異な偶然に見舞われたなどと思うことはない。全ては私自身についての必然であったに違いない。
信号待ちの赤い汗があったからこその今だと信じているし、自身の不出来や叶わぬことを並べては数え、自分の心に向けて否定と叱責を繰り返した数年があったからこそ、「そんなことは自分を虐待することなのだから絶対にしてはならない」と誠実で心ある後進達には言い続けてきた。
縁あって知り合う若い方々には「自分のすることを愛せ」というあまりにも有名な映画の台詞を添え、ただ黙って見守りたいと思っている。

勤労に感謝する日に思うことは、働き続けられてきたという来し方について。
仕事の苦労や不遇は数多くあったが不幸だったことはなかった。
ありがたく貴いと感じて止まぬのは、そこそこの年齢になった今現在、人気ない倉庫ヤードに佇み、陽が姿をあらわす朝間詰に何事もなくボーっとして過ごせる日があること。
今日もここでたくさんの人達が仕事をし、話し、笑い、喜び、悩み、苦しみ、憤り、安堵し。
そんな「確かな時間」と「確かな生き方」がある場所に関れる悦びを、今までの喜劇とも悲劇ともいえる経験や出来事の末に授かっているとしたら、それは無上の幸せであると思う。

私が今に至っても中小企業が好きなのは、営業一年生として、何をおいても出会わなければならない相手が中小企業のオーナー社長、と耳鳴りがするぐらい教え込まれたからだと思う。
そのプリンティングが終ぞ抜けず、年数を重ねてきた仕事人生で、たくさんの社長といわれる人々と出会い、商談し駆引きし、飯を食い酒を呑み、言い合いになり、感動し感謝し、批判し批難し、敬愛し軽蔑し、激して涙ぐみ、土下座して謝り謝られ、永訣の時を迎え。
私にとっての勤労とは、中小企業のオッサン達との日々、と記すのがいちばんよい。

篩(ふるい)の下に落ちる粒ぞろいの綺麗な砂。
しかし、私の顧客はその網目を通れない凸凹で奇妙な形の礫(つぶて)ばかりだった。
私もその中の一粒なのだろうと思う。

著者プロフィール

永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。

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