オリンピック・パラリンピックが閉幕し、テレビもネットも数か月前の様相に戻ったようだ。
従来通りのお粗末さよろしく、コロナ禍と与党の総裁選と天気予報ぐらいしか報道のネタがないらしい。今や論う気にすらなれない既存の大手メディアとそれにかかわるジャーナリストや評論家の均一化や単眼化がより顕著であまりにも赤裸々すぎて視聴に耐えない。
これではYouTubeなどのプラットフォームが台頭するのも当たり前で、テレビ画面は今や大型のモニターと化しているのは私個人に限ったことではないと思っている。
疫災と天災の報道時に共通して用いられる慣用語として「不要不急」がある。
個人的には見聞きするたびに毎度引っ掛かる。
つまり不要不急の線引きや選別を突き詰めてゆけば、ほぼ全部が当てはまってしまう気がしてならないし、その答えと同時に不愉快であり納得もしてしまう自分がいるのだ。直截に書けば「必達や必至のための火急事や絶対必要なことなど皆無に近い」、、、それは世間から求められていないことと同意ではないのかと推してしまうからに違いない。
実は大昔からそうであり、マッチポンプのように自ら面倒事の種をまいたり、もっともらしい理屈や理由で災禍に飛び込んでみたり、誰からも求められず期待されていない正義感や義務感や責任感を勝手に妄想し捏造――してきただけではないのか?という猜疑に満ちた来し方を思ってはうんざりすることが多くなった。
ちなみに自虐の意図は皆無である。
単に外側から自身を眺めてみた際の正直な感想でしかない。かような想念を巡らせたからと言って、出家したり山頭火や放哉のように余生を過ごす気力も意志もなく、諦観や達観などとは全く違う「なんだかなぁ」としか言いようのない脱力感が漂うだけだ。
不要不急の外出を控えて、、、ならば外出する理由がなくなる。
不要不急の用件は避けて、、、ならば何も用事が無くなる。
不要不急の私事以外のみ、、、長考・熟考してみたが、何ひとつ思い浮かばない。
のように、実は私には「不要不急ではない」と評する事項がないのかもしれない。
仕事にしても訪問や会合などの機会が激減したにもかかわらず、「まったく」と言って障りないほど不便や不自由や不足はない。
つまり顧客との面談や諸々の計画進捗についても、事前の準備やメールや電話でのやり取りさえ過不足なく行っておけば、不要不急としても問題ないのだと知れた。
ほんの数年前まであれほど慌ただしく駆け回り、携帯電話の着信確認と返信に追われ、メールを何本も送受信していたのはいったい何だったのかと思う。だからといって、こんな今を過ごしているのが私だけなのか、係わりある方々もそうなのかを確かめる気はない。
それこそ不要不急の余計事でしかないと思うからだ。
ちょっと困っているのは、時間や諸事に追われていた頃の方が文章を書くモチベーションを維持しやすかった点だ。
時間に余裕のある今の方が筆の進みが悪い。
問題意識は憤慨や猜疑を母とすることが多いのかもしれないが、反して静かに世間を眺める視点からも何か書けるのではないかと考えたりもする。
今の状況がスランプなのか階段の踊り場なのかはわからない。
考えても詮無いので、当面は関与先の物流改善に没頭したいと思っている。
現場で本当のことを貫くことに迷いや足踏みは不要。
不急の宿題を常に前倒しで片付けることも現場の王道として心がけつつ、明日も庫内を歩くのだと思う。
永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。
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