少子高齢化による労働力不足がもたらす国家的危機。
人口減少国の消費行動には我慢と抑制が必添。
のような言葉を見聞きするたび、「うるせーなぁ」と内心で毒づくのは毎度のこと。
あまりにも単眼的悲観論やすり替え論が氾濫しているように思えてしかたないので、今後の拙文の下地説明を兼ねて、思うところを少し書いてみたい。
わが物流業界などは、少子高齢化と労働人口の減少による「影響」や「圧迫」などのマイナス効果をもろに被る典型とされているようだが、個人的にはあまり心配していない。
「人手が足らぬなら、それなりにやりようはあるだろうし、市場の主である消費者は事の理がわからぬほど愚かではない」という確信があるからだ。人員不足の物流事情を解し、それに応じた時間や頻度の許容を認める空気が漂えば、時流適当なサービスに対する理解をする人々が大勢を占めるはずという意だ。
かたやで、新種の利器やサービスの売手からすれば、千載一遇の好機到来と躍起になるのは当然だろう。さらには、いわば焼け太りの図式を正論化して喧伝する手合いまで次々に現れている様相にはもはや辟易を通り越して、見聞きするのが苦痛となっている。
特に「人口減少は未曽有の危機なのです」という前提条件で始まる組立論理がやたら多いような気がするが、その前提条件となっている軽薄な土台を蹴っ飛ばしてしまえば、ただの無責任な声高演説であることが知れてしまう。
全否定はしないが、ものの見方としては拙いと感じること数多だ。
わが国における、少子高齢化→人口減少→経済縮小、には異議なしである。
しかし、労働力不足を補うにあたっての自動化や機械化の台頭は、必ずしも省人化・無人化と等式で論じられるとは考えていない。
なぜならAIや機械が担える守備範囲には四方八方ですぐに限界ラインが引かれるだろうし、その主たる線引者は労働力不足に苦しんで自動化を求める事業者当人だからだ。
自動化や機械化を維持するための事務的労力や別建ての補完業務の存在は、表立って語られないだけで、実際には多くの現場に影のごとく付いてまとう。そもそもが非属人を叶えるための下地の整備ができていないために、目の前に数々の利器を並べられても上手く活用できない。ゆえに「上手くいっている」という広報にほころびが出ぬよう、裏手で帳尻合わせをしなければならない。
事業者によっては、
「手作業が支える自動化された現場」
「自動化を叶える機器の本来目途と効用を誤認識し誤用」
「最先端の自律型システムから、マニュアルでデータを抜き出してエクセルにて帳票作成」
のような内実を経営層が把握していないことも少なからずありそうだ。
それはまるで見世物小屋で繰り広げられるとある舞台の一場面を思わせる、、、高性能の機関銃で殴り合い――旦那様、それは殴るための武器ではなく、射撃するための道具です――という番頭はんや丁稚どんの胸中でのつぶやき。客席から観覧する者たちは、一様にまず唖然として、すぐさま苦笑。
なんていう舞台以上に滑稽な現実があちらこちらで見受けられるようになる。
「機械設備やAIやその他補助具を導入できる現場環境を整えた時点で、現状に比して大幅な業務合理化や簡素化が叶うだろうし、その果実として総労働力の削減がもたらす省人効果が得られるはずだ」、、、のように、現場実務を精査すれば容易く結論付けられることは明白だ。
言い換えれば、自動化導入という契機があったゆえに、業務フローの合理化や直列化が叶ったのだが、その時点で機械や設備の新規導入など不要なぐらいの及第レベルに改善効果が至っているので、もはや自動化不要状態となってしまう。
何とも皮肉なパラドックスであるが、単なる仮想ではなく現実なのだ。
実例としてはまだ少ないが、今後は類似の報告が急増するに違いない。
その他要因として「高額な設備投資はできない」「自動化を得るための床・壁・天井の改築改装、もしくは拠点移転などの付帯負担は重い」なども見過ごせない。なぜなら導入を促すプレゼンテーション画面には、そのような断り書きが割愛もしくは目立たぬように脚注にあることが多いため、導入希望者からすれば、後出しジャンケンで負けた困惑や憤慨を禁じえないことも大いに考えられる。
ここで重要なことは、時世や流行などとして論じられることが多い「転ばぬ先の杖」や「傾向と対策」のようなノウハウ本依存状態に陥ることへの回避を心がけて欲しいという点だ。
時代の流れがもたらす、いわば外力の助けを借りなければ自己変革や自浄作用を回復できなくなっている自社の実態と今一度向き合ってもらいたいと切に願う。
自動化のための環境整備や業過改善ができるのであれば、自動化という枕詞を外して、今すぐに改変や更新に着手してはいかがだろうか。
各種改善や業務取捨の果てに、まだ不足や不安や不備が存在するのであれば、その時点で補完や代替のための利器類を検討材料としてテーブルに載せてもよいのではないだろうか。
私の最も言いたいことは「いいじゃねぇか人が減って、経済が小さくなったとしても」ということだ。
12,000万人でやっていることを9,000万人でやろうとするからしんどい。
12,000万人の時の規模や数値を9,000万人で維持しようとするから悲観的になったり切羽詰まるのだ。小さくなることを後ろ向きで斜陽化と取り違えている論調が圧倒的主流を占め、多くの人々がオオカミ少年のように毎度「タイヘンな時代なるぞぉ」とふれて回る。
「皆で腹をくくって、思い切って縮んでみようぜ」と声をあげる者がもっと増えれば変わってくるはずだが、そのような有志はまだまだ極めて少数派でしかない。
では12,000百万円の売り上げ規模の自社が数年後に9,000百万円に減収するとしたら、どうだろうか。人員削減や拠点整理は無論のこと、取引先の見直しと新規事業分野への進出と同時に既存事業の検証。減収ながら利益率の確保による適正利益の維持を主眼とし、社員一人当たりの生産性は現状維持を最低必達ラインとする中長期計画を策定実施する・・・
のような内容になるのではないだろうか。
市場の構造的な変質や変容に起因する収入減であれば、抗い突き進んでも二百三高地のような惨状が待ち受けるだけだろうし、かといって嘆き悲しんでも事態は好転しない。時勢を悟らぬ猪突猛進を不屈・正義と取り違えている蛮勇者や、方策を持たぬ悲観論者は組織に不要だ。
国家も同じでよいと考えている。
人口減による内需縮小は当然の因果なのだから、そこは真正面から向き合って受容する。
しかしながら、個々の平均生産性や成果物――つまり国民一人当たりのGDPは現状維持か向上を国策として目指す。
ならば、「総量」や「規模」の国際統計的には順位を下げたとしても、国民生活の豊かさとしては決して低くないところに在り続けるのではないだろうか。企業同様に、国としての強みに応じた産業強化のための投資や法整備が必要なことは言うまでもない。
わが国は、長年の経済成長により社会資本の充実が進み捗ってきた。
舗装された道路、緑地や公園、湾岸部や河川の整備、海浜公園の新設や増設、公共施設の充実、高速道路網の延伸と付帯施設の利便強化、観光資源整備のための投資、、、
たとえ人口が減っても、それなりの経済活動を創意工夫することで、個々の暮らしは維持できると考える勢力が増えることを強く望んでいる。
悲観論や人間の代替機能を謳う前に、まずは「止めても支障ないこと」「なくても困らないもの」「やり方を変えるべきもの」を徹底的に洗い出す。
そのうえで、システムや設備による補完や補充もしくは代替を考える。
つまり物流現場の改善手法と全く同じなのだ。
もし貴方が同じく感じるのなら、ご自身なりの方法で声をあげてはいかがだろう。
読者諸氏の声の束が厚く太くなれば、世間で相応の動きが起こるはずだ。
永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。
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