市場での評価や勝利という言葉が指し示す意味は時代と共に変化してゆく。
長期的な基礎的条件の予測によって、勝ち方や生き残り方の舵取りが左右される。
近年は以前にまして「構造」と「情報」という要素が企業業績に大きく関与している。
制御が難しい「構造」や、毒にも薬にもなりえる「情報」というナマモノをどう扱うかは、業績だけでなく内部統制にまで大きな影響を及ぼす。
構造については人口動態や内需動向の実態と先行きを見据えることで対処。
情報についてはめまぐるしく変化し続けるので、受発信とその評価の測定が難しい。
定点観測したいが、どの場所で何を確認すればいいのかが特定できないので、どうしても横目で他社の動向を追いかけては、自社のそれと比較ばかりしてしまう。
そんな本音が多数の企業に垣間見えている。
「足るを知る者は富む」が言い表すとおり、「飢えを知らない消費者」の増加と多数化が、今までの常道を曲折させたり途絶えさせたりする。
そしてその流れは物流サービスの在り方にも大きな影響を及ぼす。
個人向けECの物流関連サービス(主として配送や保管など)は「最上」「最高」「完璧」ではなく、「平凡」「普通」「及第」といった印象を得るための工夫で足りるようになるのではないだろうか。
個々の生活の中身とバランス、つまりQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の内容を自己決定する際に、意識の根底に横たわる「これぐらいでじゅうぶん」という感覚。
つかみどころのないそんな空気感を、この数年来「自考自足の時代」と勝手に名付けて検証や考察の核にしてきた。
必然的に、消費行動の延長として物流サービスにも同種の味付けが求められるようになる。
「これぐらいで」に収まる範囲を「普通」という。
購買印象を決定付ける「三つの普通」は、今までどおり、品質・サービス・価格。
では「普通の物流」とは何か?
それを規定するに際して、「足らない」はあまり考える必要がない。「過剰・余剰」を切り出すことこそ最重要な作業になる。
まるで催眠状態のように縛られてきた「行き過ぎた普通」からの解放を正しく冷静に判断するショップが次々と現れてくるだろう。
売り逃し回避のための過剰在庫や重すぎる送料負担、求められていない厳重で華美な梱包。
極限を追求する配送の最短化と受取方法の便宜。
囲い込みのためのクーポンや割引率の恒常化。
希望の有無など関係なく、かつ無料で提供されるので、ユーザー側はわざわざ拒否しないし、レビューには相応の高評価や好意的な満足度の高いコメントが並ぶ。
しかし購入にあたっての要件として重要視もしなくなりつつある。
具体的ではないにしても、大きな流れとして「無理や過剰は廃れてゆく」ことを感じ取っているからだし、その手の情報戦争に食傷気味となりつつあるからだ。
「飢えを知らない消費者」に対して最高や完璧や上等、いつでも・たっぷり・即時、を訴求しても反応は鈍い。飢餓感がないので即席や満腹感に反応しない。なぜなら安くて手軽な衣食は日常にあふれているし、それ以上を求めることに関心がない。ゆえに、ストレスのない状態が維持できることで欲求はほぼ達成され、個人的な趣味や嗜好の対象以外では、良くもなく悪くなく「普通」が好ましいのだ。
素晴らしいラッピングや時間にこだわる配送指定や過剰ともいえる配送状況の進捗表示。
置き配、各種受取装置などの多様化する利便。これとて対面でもいいし置き配や宅配ボックス収納でもいいという「どちらでもいい」という反応が最多層となるのではないだろうか。在宅・不在に関係なく、単純に対面受取の行為自体が面倒なので、置き配を選択しているだけだという受領者は少なくないと推測している。
つまり、今まで提供されてきた「あたりまえ」以上のことを何が何でも求めるユーザーの比率は低いのではと感じてやまない。
コンビニや郵便局に出向いて受け取ったり、電話や配送システムのWEB画面から連絡の後、在宅時に再配受取することは大した手間でもストレスでもないのだろうと思える。
もちろん置き配や宅配ボックスが選択肢にあれば利用するのだろうが、なければないで構わない。要は、そんなことにこだわるほど買物に対する熱があがらない。「たいした問題ではないし、興味もない」が平熱の状態なのだろう。
強く欲したり、激しく憤ったり、長く望んだりすることがない購買層には、邪魔にならず地味で特段目を引かないサービス説明こそが好ましいのではないか。
「他社に比べて圧倒的にお得です」
「限界まで安くし、送料も無料のままで頑張ってます」
「業界ナンバーワンを目指して途絶えることなく情報発信と情報収集しています」
こんなうたい文句自体が時代遅れになってしまう。
ふと、ラグビーの一場面が思い浮かぶ。
全員で湯気の出るような熱意と気迫でドライビングモールをゴールライン目指して押し続けているが、肝心のボールは離れた場所にひっそりと転がっている。モールを組んで必死にゴールを目指しているのは強者と誉れ高い販売者。
そんな様子をゴールポストの奥で眺めている消費者。
求めているのは熱意や競争力や完璧な顧客サービスではなく、目や耳にうるさくない、平均から大きく乖離していないと実感できる内容とその説明。
購入後もメールマガジンの購読やアンケートなどは「配信不要」を設定することが多い。
「お得」は魅力だが、「損していない」ならそれでよい。それ以上は考えないし、横目で他人との優劣や損得の比較をする気はない。
配送についても同様だ。「特別」など期待していないし、求めてもいない。
買い物にまつわるあらゆる手間や遣り取りが面倒ゆえECを多用するのだから。
仮想だが、以下のような内心の消費者は少なくはないと感じて止まぬ。
―――配送料の有料化は避けて通れないと覚悟している。交通機関を使って買い物に行くことを考えれば、送料がかかるのは当たり前だと思う。あまりにも〝送料無料〟がちまたに氾濫していたから、いつの間にか感覚がマヒしていた。加えてそんなに先のハナシではなく、環境保護と資源循環の一環として、再生もしくは生分解可能な梱包資材が有料化されて、配送料に合算されるような気がする。ネットでの買い物は消費税と配送料などのEC手数料的なコストがかかるのだと諦めに近い理解をするしかなさそうだ。
しかしそうなれば、長年固執してきたあわせ買いや配送無料ラインを気にすることなく買い物ができるようになる。消費税や諸手数料の値上げや無料サービスの廃止は歓迎しないが、自分だけが損するわけではないので受け入れるしかない。
結局は、その店での買い物を止めるか、他を探すか、甘んじてルール変更に従うか、を選ばなければならない。愛用しているショップのサービス料金変更を、合理的でやむを得ない措置、他を探して右往左往しても得るものはないと信じ、従来通りの利用を続けるのが一番簡単な納得の仕方だ。ショップの良心を疑うなら、その店の顧客をやめればいい―――
上記のようなパターンばかりではないだろうが、傾向としては強まると考えている。
さまざまな物販サイトのユーザー・コメントやレビューの行間には、前のめりにならない購買行動が漂っているし、購買後の感想も冷静で第三者的な観察や評価内容が目立つ。
買う・買わないは販売者発信のセールやその他情報によってだけではなく、何度も「本当に必要なのか・欲しいのか」を内心で確認した末に決定する。
セールやお買い得品は年間を通じて存在しているから、一定期間で統計してみれば、人よりも極端に割高だったり割安だったりの買い物アベレージはありえない。誰もが似たり寄ったりのコストパフォーマンスに収まるはず。だからその時々の情報に反応して、即行動するとは限らない。潜在的な意識として「情報収集と損得の比較に追われるのは嫌」が大多数を占めると感じてやまない。もはや買い物は身構えるようなイベントではなく、劇場型の見世物的演出は滑稽さを伴って衰退してゆく。
そして、種々のアプローチで販売側が迫れば、一定距離を保つために、後ずさりしたりかわしたりする消費者の比率が高まってゆくのだろう。
「普通」とは?
の問いに迷いない正解を断言できる物流業者はいない。
少なくとも昨今の庫内作業の無人化・省人化や配送サービスの細分化と有償化は、消費者の望む「普通」を反映することを起点としたものではない。
販売者や物流業者の便宜や都合をサービスにすり替えたり言い換えたりして、核心を不透明にしている事例が大勢を占める。
多くの消費者の求める物流サービスとは、ECなら、違和感のない梱包や配送であり、安全で信用のおける第三者運用の決済システムではないだろうか。「このショップは信用できる」というハードルを越えた後、購入時に届日やそれにかかわるコストなどが明示されていれば、大多数のサイトユーザーは理解と納得のうえ、購入手続きを進めるはず。
それが翌日配送でなくても。
それが送料無料でなくても。
それが代引不可であっても。
販売者が時限の設定を先送りにしている傍ら、消費者は内心でとっくに腹をくくっている。
「普通」への回帰は即実行できる。ではその端緒をいつ誰がきるのか?
フライング監視ともチキンレースとも判別のつかない、様子見の面々たちが群れる市場。
その対岸で、消費者たちは「いつでもどうぞ」と気長にのんびり事の顛末を眺めている。
滑稽で苦笑ものの風刺画を描いてみたいが、幼稚園児にも劣る私の画力では叶わない。
心ある画伯の登場を願う。
永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。
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