会話は好きだが会議は苦手だ。
というのが長年抱き続けてきた本音なのだが、最近は理由がわかるようになってきた。
それは単純に「疲れる」から、、、我ながら呆れてしまう。
話すことと書くことは生業なので避けて通れない。
しかしながら長年やっているくせに、いつもムラだらけで、落語家のように「毎度物流のよもやま話を一席、、、」と気の利いた枕を置いて、しかるべき本題を立て板に水を流すようによどみなく、、、なんてことはめったにない。ハナシが横道に逸れたり、自分で切り出した話題なのに、すぐに飽きてしまいソワソワ落ち着かなくなったりなんてこともある。
「こんな体たらくでよくぞ自称プロがつとまるなぁ」とたまに謙虚に考えたりするが、「評価は人がするもんなんだから、自問自答しなくていいや」などと開き直ること数知れず。
あちこちの会議で似たような内心の動きのまま、寄合の時間を過ごすことは少なくない。
会話だと少々長くなってもあまり疲れを感じない(相手次第であることは言うまでもないが)くせに、会議でのやり取りは1時間ぐらいしか集中力が続かない。というのはひとえに自身の気質が稚拙で能力が足らぬゆえなので、誰かに理解や許容を求めることなどできないことぐらいは心得ている。会議中に表情や挙動や発言内容にほころびが出ぬよう、懸命に集中力を逸らさないことを意識している。なので非常に疲れるのだ。
特に自分が話し手ではなく、聴き手に回る際には、終了後の疲労度が大きい。
これは万人もそうなのか、一般的には逆であるのかは判らない。
その違いを明らかに感じるのは当日の夜だ。つまり睡魔の到来が早まり、普段に増して熟睡する。講演などで話し手を務めた後の疲労とは、大きさというよりも種類が異なるように思えるのだが、科学的な説明はできない。あくまで個人の体感であるし、毎回意識して日記などをつけているわけでもないので、自分自身でも要領を得ないこと甚だしい。
根拠ない思い込みかもしれぬが、私の場合は「発言」よりも「聴取」するほうがよりエネルギーを消費しているのではないかと想像している。
聴き洩らさぬように、聴き違えぬように、発言者の本意や要旨を正しく理解する、発言者の本音が引き出せるような相槌や短い質問を挟むタイミング、他の聴き手の妨げとならぬような気配りを怠らない、発言者への質問が他の発言者を生み出すように言葉や事例を選ぶ、、、、、などと回転の悪い頭脳を必死に回すので、後にどっと疲れが見舞うのだろう。
上手い聴き手ならばこんな苦労もあるまいに、といつも項垂れてしまう。
物流現場の改変と改善には質問項目に従ったヒアリングと、その内容の分析や検証の結果説明、続く改善方針とその方策のプレゼンテーションが定石とされている。
言うまでもなく最大の難所は「ヒアリング」であり、すなわち要所でもある。
初動の肝とされるヒアリングが拙ければ、その後のすべてが不十分で不調に終わる可能性まではらみかねない。
だからこそ最初の「聴く」、適宜の「訊く」、現場やオフィスなどあちこちでのさりげなく「聞く」はとても重要だし、そこが丁寧綿密にできれば、ことの過半は成ったに等しい。
聴くことの巧拙が、続く会話の中身を濃密で実り多いものにするか否かを左右するので、数多い物流人たちは「ヒアリング」に大きな精力を注ぐ。なぜなら、そこをサボれば後に大きなツケが回ってくることを心得ているからだ。
などと訳知り風の正論を書いているが、そのとおりに行動できているかは怪しいもんである。
言うは易し、成すは難し。
いい齢をしてこんな実感を抱く自分が恨めしい限りなのだ。
永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。
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