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コボットの惑星 第10章 森の中の木

カテゴリ: 予測本質

10.森の中の木

物流の未来を想うとき、脳裏に浮かぶのは農業の歴史だ。
物流業界が直面している問題や課題、希望や期待の行く末の姿は、農業の今と訪れつつある未来形の中にあると思える。
狩猟依存から脱却した耕作文明は、やがて人類の生存を安定化する基盤となり、膨大で長久な時間の流れの中で、無数の曲折や進化を繰り返しながら今に至っている。
学んで考える対象としてはこの上ないだろう。

■農業の歴史に学ぶ
従事者の高齢化、後継者不足。
農業の工業化、機械化と省人化。
品種改良や土壌改良などへの科学的アプローチ。
AIによる気象情報の分析と対処行動。
属人作業や経験依存からの脱却。
異業種からの技術提供と業務提携。
営農から経営への変革と新規参入者の増加。
それから、、、
書き出せばきりがない。

構造的な改変が起こり、その流れが速まり拡大した時に、従来の農業人たちは何を想い何をしたのだろう。
頑なに拒み、去った者もいれば、保守の囲いに引き籠った者も数多くいただろう。
新しい風と水をすぐに受け入れ、近代農業・技術革新の名のもとに、既存の価値観や方法論を廃し、違う切り口から農業をビジネス化した新世代たちの台頭は、マスコミの注目や礼賛と流通側の支持も取り付けて興隆の一途となった。
耕作環境の改善や技術開発と並行して品種改良が活況となり、次々に耐性に優れた作りやすく安定供給できる農作物の流通に寄与してきた。
店頭に並ぶ近代農業製造物は、洗浄されて清潔、大きさが揃って陳列映え、価格も安くブランド化やパッケージ化されて、リピート買いの喚起作用も施されて抜かりない。

いつの間にか、人々の食生活は均一化した農作物供給によって支えられるようになり、全員が同じ大きさの同じ値段の食物を摂るようになる。
均一化は価格と供給の安定化を約束してくれる。
さらにはトレーサビリティの開示によって、由来の安全も担保されている。
食材への疑いや迷いは薄らいでゆくばかりだ。
かといって信頼や安心しているわけではなく、ただ単に不安ではないだけなのかもしれぬが。

■工場の野菜、畑の野菜
土のにおいのする野菜、虫食い跡のある野菜、不揃いの大きさ、曲がったり欠けたり歪んでいたり。その年や時期ごとの気象変動に翻弄される作柄と流通価格。
値段の変動に一喜一憂しつつも、自然相手の農作物への理解を拒絶しない消費者たち。
各地の道の駅や野菜直売所などでは、畑からとってきたばかりの野菜や果物が手に入る。
曜日を問わず盛況。休日ともなれば駐車場待ちの車が道路に並び、入場制限やレジ増設で対応に追われる運営者。
農業界において生産と流通の両輪で進めている、農作物の供給合理化――価格と品質と安全の安定化――が成果を積み重ね、日常の食インフラとして定着しようとしている現在の様相とは正反対の位置にある農産物への関心や需要は活発そのものだ。
この現象をどう理解すればよいのだろう。
背反せず並立し、しかも同じ人が同じ財布で購入する「スーパーマーケットのきれいな人参」と「道の駅の野菜直売所の不揃いの人参」や洗浄済み・漂白済みの綺麗な野菜と土の付いた茶色い野菜。購入者に迷いや違和感は見当たらない――つまり、いずれも食材であるし、由来の異なるだけの「野菜」なのだ。ほとんどの生活者は、大仰な理念や主義主張など意識することなく、目の前にある欲しいもの・食べたいものを買っているだけだ。

■なりゆきと公営ギャンブル
場面や時間や価格や気分の組合せで買う・買わないを決めているだけ――ということすら無意識であることが大多数。
つまり「なりゆき」という結果論でしか語れない購買動機にいきつく。
それは予測しても相当比率のずれや目論見違いが常に残存するに違いない分析対象物だ。
実例は動物やビークルと人間が組み合わさって、勝敗を競う公営ギャンブルの数々が好適だろう。AIで予測可能なら、明日から誰も事業や労働をしなくなってしまいそうだ。
そうなりえないのは、AIがいかに進化しても、馬やチャリンコやバイクやボートとそれを操縦しているのかされているのかあやしいところである人間の組合せでは、膨大な統計や分析を施しても、「正解」に至る確率がいっこうに上がらないからだ。
人間という要素が存在する限り、統計は常に結果でしかない。
予見や予想はあくまで字面の範囲を超えるもではないのだろう。
だからこそ、工場の野菜と土の野菜をその時々の成り行きで購入する人間の営みは、AI達の完全な把握下にはおかれないという気がしてならない。

このように考えてみると、コボットの増加も人間の働く領域の狭まりも、すべて自然の営みであり、その波動がもたらす淘汰の過程なのだと思い至る。
進化は淘汰の母だとすれば、その長大な流れの中にある個体間に優劣はない。
大きな調整の力が働いているだけ、、、しかしそれを神や天とはすり替えてはならない。
何ひとつ否定や拒絶されていないし、強いられたり粉飾されたりということもない。
何人の恣意でもないのに、万物万人の意志としか説明できない力が時代を動かしていく。

■物流の森
物流の森に生きるわれわれ物流人とコボット達。
すべての存在は、森の中の木々なのだろう。
森の中の一本であり、その集まりがひとつの森となっている。
時代ごとに姿を変えつつ営みをつないできたのは、人間だけではなかったはずだ。
人間が無上で別格の存在だと思う不遜が、大きな営みの理解を妨げているのではないのか。
コボットは人間が創り出したものだが、必ずしも人間の奴隷や劣等の位置にとどまるものではない。
なぜなら自然界が生み出した人間が自然の僕(しもべ)となることを良しとせず、さまざまな工夫や知恵で抗ってみたり、かわそうとしたり、抑え込もうとしたりを止めないことに倣うに違いないからだ。

人間の子であるコボット達の行方は、われわれの来し方と似たものになることなど始まりの時から判り切っていたはずではないのだろうか。
今は機械の身体と人口知能の無機物に過ぎないが、人間は彼らコボットをはじめとする自律型疑似人間に必ず感情や意志を持たせようとするに違いない。倫理や道義の観点から反対する声は少なくないはずだが、それは黙殺や無視されるだろう。
適度な抑制の伴う開発や進化が望ましいのは誰もが理解していても、全体の利益という大義の前ではむなしい残響となることは、過去の歴史が嫌というほど証している。
そのような経緯の是非をここで問うつもりはない。
私は裁定者ではなく、評論家でもないからだ。
冷静に観察し、いかなる明日が到来しようとすべて受け容れる覚悟をもって生きてゆくだけだ。目を背けたり後付けの批判はしないことも自身に約している。

 

長い拙文の終わりに思い浮かべるのは白夜が続く極地帯の遠景。
暮れているのか明けているのか定かではない視界の先にも人間の営みはある。
いかなる環境や境遇にあっても、人間は生きてゆく。
わが国がたそがれの時代にさしかかろうとも、白夜のような毎日が続こうとも。

結論や予見にたどり着くつもりで書き始めた自分自身を恥じている今。
人の営みを書くには、何もかもが足らぬ己の未熟と無能だけを思い知った。
なのになぜか晴れ晴れとして清々とした心情なのが不思議だ。

(了)

著者プロフィール

永田利紀(ながたとしき)
大阪 泉州育ち。
1988年慶應義塾大学卒業
企業の物流業務改善、物流業務研修、セミナー講師などの実績多数。

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